ポップワーナー情報

ポップワーナー物語

始まりは1929年、フィラデルフィアの北東部の、ある新しい工場のオーナーが繰り返し発生する問題を解決するために、若い友人であるジョセフ・J・トムリンの協力を仰いだ。その工場の巨大な窓は常にこわれていた。10代の若者達が近所の空き地から石を投げて100枚の窓ガラスがたった1ヶ月で割れた。

ハイスクールやカレッジでスポーツに秀で,情熱的なアスリートであるジョー・トムリンの答えは予想できる答えだった。その地域の他の工場も若い破壊者に悩まされていたので、彼は、ビルのオーナーたちが一致協力して若者のスポーツプログラムを見つけることを提案した。当時、時間をもてあましている若者が夢中になり悪さをしなくなるような余暇のプログラムの組織がその市にはなかった。

オーナーはその考えに賛同し、トムリンにプログラムのお膳立てをするように要請した。トムリンはニューヨークで株式仲買人の仕事を持っていたが、毎週末にフィラデルフィアの実家に帰ってきた。秋が近づいて来ていたので、新しいプロジェクトを始めるにはフットボールが理にかなっているように思えた。彼は、1929年のシーズンに間に合うように、4チームからなるジュニアフットボールカンファレンスのスケジュールを立てた。

10月になり、株式市場が崩壊した。彼はニューヨークを去り、フィラデルフィアに戻って若者のプロジェクトに専念した。

1933年までには、ジュニアフットボールカンファレンスは16チームに増えていた。その年、既に現役のフットボールコーチの間で伝説になっていたグレン・スコビー・“ポップ”ワーナーがテンプル・オウルズのコーチになるためにフィラデルフィアに到着した。ジョー・トムリンはあるウインターバンケットでポップワーナーに出会ったときに、彼は自分のJFCチームの為に計画していた春期クリニックを担当するように要請した。

1934年4月9日の夕方、気温は不当に下がり、激しいみぞれ混じりの雨と強い風が吹いていた。十数人のフットボールコーチがクリニックでスピーチする事になっていたが、来たのはポップワーナーコーチだけだった。800人の若いフットボール選手は興奮しポップワーナーコーチは2時間の間スピーチし、質問に答えた。夜になり、大喝采の中、このユースプログラムにポップワーナーカンファレンスと名付けられた。高名なワーナーの名前は強力に人を引きつけた。1938年までには、157チームになっていた。ほとんどの選手は15歳以上で、中には30歳以上の選手もいた。最も体重の重いグループのみが競争する。最も年下はのぞく。チームは市内の近所を代表していたが、一方で公害のチームは町を代表していた。

世界大恐慌時代、大勢の子供達が学校を去った。教育の重要性を信じているトムリンは文学や演説をもってその様な動向に対抗した。また、学校に留まる事を希望している最低限の子供達に家庭教師を手配した。

第二次世界大戦が始まると、ポップワーナー大会は年長の選手のほとんどを失った。いくつかのチームが畳み、いくつかのチームが合併した。たった42チームが残った。1947年のシーズンには100チームに戻ったものの、チーム構成にシフトがあった。帰還した軍人の多くはフットボールをあきらめた。だんだんと、各チームは15歳以下の選手だけになった。彼らを守るためにルールが設けられ、最低体重、最高体重が設定された。“ミゼット・フットボール”の時代が始まった。

サンタクロースー・ボウルと呼ばれた最初の“子供”ボウルゲームが1947年12月27日に6インチの積雪の中2,000人の寒さで震える観客の前で行われた。フィラデルフィアのサパークラブがスポンサーをしていたクリケッツのミゼットチームが、フランク・シナトラのサイクロンズというニューヨークから来たチームと対戦した。フィラデルフィアのチームが6対1で勝ち、フィラデルフィア・ポップワーナー・カンファレンスが初めて全国の注目を集めた。

子供のためのフットボールが全国の地域社会において発展し始めたとき、トムリン氏は、新しいチームを作るという要請を洪水のごとく受けた。1950年代のはじめまでには、“全国的になる”と決めていた。何人かの支持者はいたものの、中傷する者もいた。多くの人々はタックルフットボールは子供には危険すぎると信じていた。ジョーはその様な人々に、フィラデルフィア・ミゼット・プログラムは15年間運営されてきたが、その間死に至る怪我や、重傷は無かったと言ったが、彼らは聞く耳を持たなかった。

しかし、ジョーの言う事に耳を傾けた人々もいた。AFCAアメリカン・フットボール・コーチズ・アソシエーションは1955年に切望された“スタッグ賞”をジョー・トムリンに与えた。ある主要な全国規模の保険会社は、子供のタックルフットボールはその支持者が主張するように安全であるという経験的証拠に基づいたレートを付けたプランを発表した。当時NFLコミッショナーであったバート・ベル氏は亡くなる少し前に、ポップワーナーのプログラムをチームオーナーに紹介して、全国的に彼らの支持を得ることに同意した。

1959年ポップワーナー・リトルスカラーが正式に非営利団体として正式に法人化され、トムリン氏の夢はついに現実となった。組織の名称は、ポップワーナーの基本的な概念を強調することを念頭に選ばれた。すなわち、「学校の教室はフットボールをするフィールドと同様に重要である」という概念である。このようなポップワーナーの指針に引かれたディズニー社は「ポップワーナーのムーチー」という2時間の映画を撮影し、1960年にABCチャンネルで放映された。その映画は今でもディズニーチャンネルで見ることができる。

1960年代には、ポップワーナー・フットボールは全米の小さな村、中サイズの都市や大都市部で急成長した。60年代の終わりには、チーム数は3,000を超えた。

しかし、フットボールは男子のスポーツだったので、女子は無視されているように感じた。スタンドで応援するだけでは満足しなかった。女子はどうにかしてフィールドで感じられるような興奮と楽しさを共有したかった。それで、ポップワーナーは新しい活動を紹介した。それがチェアーリーディングである。女子は飛びついた。そして、1970年代にはこのポップワーナーの新しい部門は急速に発展した。

1983年、多くの要望に応えてフラッグフットボールのプログラムが始まった。当初は予算の少ないチーム向けに計画されたプログラムであったが、このプログラムはタックルフットボールのリーグへのすばらしい訓練の場になっている。

現在米国では、40万人以上の5歳から16歳までの男子と女子がポップワーナーのプログラムに参加している。メキシコや日本のチームもポップワーナーファミリーに加わっている。現在6,000以上のチームが8つの別々の年齢・体重の区分でプレーしている。

チェアーリーディングのプログラムは従来の“サイドラインのダンスチーム”以上に展開し、バトンガール、ポンポンチーム、ダンスチーム、応援団も含まれる。第一回全国チェアーリーディング大会が1988年に行われ、現在では、ウォルトディズニー・ワールドで行われるポップワーナー・スーパーボウルとともに脚光を浴びている。

ポップワーナー・プログラムに欠くことのできないもう一つの競技会がある。この競技会は学業成績の優秀さを表彰するもので、オールアメリカン・スカラーに指名されることはポップワーナーの選手チェアリーダーがみなほしがる賞である。

ポップワーナーは子供達にとってただのスポーツ以上のものである。献身的なボランティアの人たちが重要である。コーチ、フィールド・アドミニストレーター、理事会、理事、物惜しみしない寄贈者、それにスポンサーが全てのことを可能にしている。

ジョー・トムリン氏は1988年5月16日に85歳で亡くなったが、彼は、子供と、スポーツと夢がある限り続く遺産を残した。

ポップワーナー・リトルスカラーズの歴史についてもっと知りたい方は www.popwarner.com をクリックして下さい。

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