久保田薫コラム

アメリカンフットボールの起源と歴史

第18話
アメリカン フットボールの起源と歴史
第8章

イエール大学でウォルター キャンプの元でプレーをしながら牧師になるための勉強をしていたエイモス アロンゾ スタッグ(Amos Alonzo Stagg)は、自分自身が余りスピーチが上手くないということに気付きスポーツの指導者を目指すことに心変わりしていった。

彼がイエール大に入学した1885年にフットボールを始め(写真・14)、後にコーチとなり1953年91才の時に引退するまでフットボールに拘わり続けたが、彼の人生はまさしくアメリカン フットボールの発展史そのものであった。

イエール大に入学しアメリカン フットボールを始めたスタッグだが、ウォルター キャンプによって改革されたとはいえまだラグビーの部分を残している時に参加した最初のスクリメイジ(スクラムが語源でSCRUMMAGEからSCRIMMAGEになった)に始まり、「Tーフォーメイション」や「Iーフォーメイション」を体験しただけではなく彼自身がその発展史上に大いに拘わっていた。

キャンプを「アメリカンフットボールの父」と称するならスタッグは新しい戦術はもちろん練習器具などでも多くの新しいものを創り出した「アメリカンフットボールにおける改革者もしくは発明家」と云ってもいいだろう。 また、フットボール以外でも活躍の場は多く、バスケットボールを創案したと云われているスプリングフィールドの医者であったネイスミス氏の手助けもし、1906年から1932年までオリンピック委員も務め、陸上の100m競争で世界で初めて10秒をきったクライド ブレアーのコーチも務め、自身がイエール大の野球部でピッチャーの時、相手チームから20三振を奪う豪腕も発揮するほどオールマイティであった。

そして、日本に初めて野球のアメリカ オールスターチームを連れてツアーしたのもスタッグであった。 スタッグは1892年にシカゴ大学のコーチに就任するが、これがアメリカン フットボールでの最初の有給のプロコーチだと云われている。(写真・15)

スタッグの指導方針は試合に勝つことも大事だが、もっと大事な事は潔癖な精神を持つ事であると指導し最後までこのことを信じて疑うことなく貫き通した。 スタッグ自身も小柄ながらオールアメリカンに選ばれるほどの名選手であったが、シカゴ大学のコーチになっても小柄な選手を好んで抜擢し起用することが多かった。

1896年シカゴ大学は体重僅か72kgと小柄のハーフバック クラレンス ハーシュバーガー(写真・15A)の大活躍により当時破竹の勢いだったミシガン大学に7−6で勝つという大番狂わせを演じた。 この当時のミシガン大は東部地区で始まり普及したフットボールを西地区では始めてフットボールを始めた大学でアッという間に全米に知られる強豪チームになっていた。

1902年には最初のローズボウルでスタンフォード大と対戦し、攻撃陣は1,463ヤードも獲得し、49−0と圧勝した。(写真・16)現在で例えると1試合で500ヤード以上も獲得されると話にならないほどの一方的な内容で野球なら10−0ぐらいの試合で敗れるようなもので、ファンからすれば観る気もしないひどいゲームであった。

その後もミシガン大は無敗のシーズンを7度も行い、特に1901年から1905年までの5シーズンでの得点は42チームと対戦し2,819点もあげ、この時のチームを「1分間で1得点する」という意味で「A Point a Minute」チームと言われていた。当然、シカゴ大などの敵ではなかったはずである。その強敵に1点差とはいえシカゴ大はハイパワーオフェンスを誇るミシガン大に勝利したのである。

その翌年、シカゴ大はBig 10(ビッグ テン)カンファレンスのタイトルをかけてウィスコンシン大学と対戦することになったが、前日エース ランニングバックだったハーシュバーガーは体重を少しでも増やしたいと思いタマゴを13個も食べ、結局翌日の試合には激しい腹痛に見舞われ試合には出場できなくなり23−8と敗れてしまった。 試合後、スタッグは「我々は11人の相手に負けたのではなく、13個のタマゴにやられた」とジョークとも思える話で会見を終えた。そして、1899年スタッグ率いるシカゴ大学はBig 10カンファレンスのチャンピォンに初めて就いたのである。

1965年8月16日、アメリカンフットボール、バスケットボール、野球、陸上それぞれの競技のコーチを務め全てをトップクラスのレベルに押し上げたエイモス アロンゾ スタッグは人生の全てをスポーツに捧げカリフォルニア州ストックトンで102才の生涯を静かに閉じた。(写真・17)

このスタッグを評して、ノートルダム大というよりアメリカのカレッジ フットボール界を代表する名コーチのニュート ロックニーにフットボールの全てはスタッグの人生の中にあると言わしめるほどであった。 さて、ニュート ロックニーについての詳細は後に述べることにし、スタッグの次に現れた革新的なコーチの代表と言っても過言ではないグレン ポップ ワーナーについてお話しましょう。

ポップ ワーナーは(写真・18)1895年コーネル大学の法学部を卒業後、ジョージア、コーネル、ピッツバーグ、スタンフォード、テンプルなど多くの大学のアメリカン フットボールチームを指導するが、中でも最もエキサイティングで伝説的なチームと云えば「カーライル インディアン 工業学校」での出来事であろう。 この学校には現在でもアメリカでの史上最高のアスリートと言われているジム ソープというベスト アスリートがいた。(写真・19)(最近アメリカで史上最高のベストアスリートを選考する投票が行われ、2位のあの誰もが知るホームラン王のベーブ ルースに大差をつけてジム ソープが1位に選ばれた) ソープはインディアンとアイルランド系アメリカ人のハーフであった父とインディアンとフランス系アメリカ人の母との間にオクラホマのインディアン居留地でサック&フォックス族の双子の弟として1888年5月28日に生まれたとされているが、居留地では出生証明が見つかっていないので確かな事は判っていない。ただ、部族員としての名前は「ワ・サ・ハク」(輝ける星)と名付けられまるで将来を暗示するようであった。

ソープはフットボール選手としては走ってよし、投げてよし、蹴ってよし、当たってよしという全てが揃った選手であったが野球でも打って、投げて、守って、走ってよしの三拍子も四拍子も揃い(写真・19A)、1912年ストックフォルム オリンピックでは五種、十種の両競技で金メダルを獲得するというスーパーマンぶりであった。(写真・19B)しかし、このメダルは後にソープがお金が必要な為に少しの期間だがサザン ベースボール リーグというセミプロ リーグで野球をし報酬を得たという事が発覚し、アメリカのアマチュア体育連盟からアマチュアとしての規定に違反するという事で金メダルを返還するよう命じられた。

当時はプリンストン大やハーヴァード大のアイヴィーリーグの学生さえ夏のセミプロのチームの一員として出場しソープよりもっと多い収入を得ていたが偽名を使っていたので判らなかっただけだとか、ホテルの運営するセミプロの野球チームに参加して報酬を得ているのにソープにだけアマチュアリズムを楯に、このメダル返還命令はおかしいというような論議が世間を賑わした。

皮肉な事にソープと一緒に代表チームの一員として活躍したメンバーに後のIOC(国際オリンピック委員会)会長になったアベリー ブランテージがいたが、彼は元チームメイトのソープに一切同情することなく、ソープが「無学だったので騙そうなんて悪気はなく本当に何も知らなかった」と言ったことに対し「無知は言い訳にならない」とキッパリと返還運動をはねつけ応じなかった。

結局、ソープの死後30年経った1983年1月18日にIOCから記念メダルを二人の息子に返還されることになった。ソープが実際にストックホルムで受賞した金メダルは博物館に保管されていたが盗まれいまだに発見されていない。繰り上げで銀から金メダルになった選手の金メダルはそのまま本人に渡されたままである。 ソープはその後もプロ野球、プロ バスケットなどでも活躍するがソープ自身はアメリカン フットボールが一番好きだったというように、1915年にプロ フットボールチームのキャントン ブルドッグスと1試合250ドル(現在の55万円くらいに当たる)という当時としては破格の金額で契約し世間を驚かせた。(写真・20) それまで、1試合平均観客数が1,200人だったのが一気に7倍近くの8,000人を越すようになるほであった。

1920年、12チームでプロフットボールリーグの「APFA」(アメリカン プロフェッショナル フットボール アソシエイション)が結成され、その2年後に「NFL」(ナショナル フットボール リーグ)と改称されるがソープは初代のリーグ会長に就任したがキャントンでプレーヤーとして専念し、1年後にはジョセフ カーが代表に就任した。また、キャントンではヘッドコーチも続けながら1932年41才の時まで現役の選手としてもプレーを続けた。

現役を引退した後の人生は決して恵まれたものではなく、生きることで精一杯のような毎日で人生の後半はアルコール中毒で入退院を繰り返す日々で、1953年の初冬にカリフォルニア州のロミータの自宅で妻と食事中に心臓発作を起こし、人工呼吸で一命を取り留めたものの結局意識は戻らず、3月28日に死去した。

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