キャンプでの毎日は朝から晩まで楽しいことばかりであった。
午前中の練習前と午後の練習前そして夕食後と各ポジション毎に分かれフィルム ミーティングが実施されるが、当時はNFLもカレッジもまだビデオを使用しておらず全チームが16mmのフィルム即ち映画を撮影するような映写機数台でフィルムを回してポジション毎の練習風景やスクリメージ、試合などを撮影していた。
まず午前中の練習フィルムは選手達が食事している間に現像し、すぐ各ポジション毎に編集焼き増しして各ポジション毎のミーティング ルームの前に置いて行くのだが、映画の現像所のような設備をプロ、カレッジを問わずに全チームが持っていたのである。(写真・8)
私はいつもウォルシュの担当するQBとWRのミーティング ルームに欠かさず参加させてもらい、練習のフィルムを見たが短時間で仕上げたとは思えないほど見事な編集であった。
また、夜になって食事、ミーティングが終わった後、ウォルシュは毎夜私を自室に呼んでくれてプレーブックを開いてオフェンスのシステムやオーディブルの仕方、パス オフェンスの基本、レシーバーのルートなど毎日1時間半ほどかけて事細かく特訓してくれた。
私が最も興味のあったクォーターバックを指導する際、最も大事な事は何ですかと聞いたら、答えは実に単純なことで「センターからスナップされたボールをきちんと受け取ること、次にケイデンス(ボールをスナップするタイミングの合図もしくはプレー変更の暗号のかけ声など)を大きなハリのある声でみんなに聞こえるよう叫ぶこと」という聞けば当たり前のことではあるがなるほどというより余りにも普通だったので驚いた。
実際にQBは毎日通常の練習開始の30分前にはグランドの隅っこで大声を出す練習をしているのが見られた。
しかも、ウォルシュは私に講義をしてくれる際、部屋の冷蔵庫を開けてごらんと言われ、開けて見たら日本のビールがギッシリと並べられていたので、別に禁酒ルールだった訳でもないがキャンプで酒、タバコを口にする選手は一人もいないほどの中でのこのもてなしには嬉しくもあり驚いた。 サンディエゴには日本食も豊富にあるし当時まだ日本製のビールがアメリカに余り普及していない時であったがここには充分あるから用意しておいたと言われ、その気遣いと優しさに本当に感動したのを覚えている。この時のビールをたしなみながらウォルシュから受けた講義は私の大きな財産になっている。
また、このキャンプではちょっとした事件というよりハプニングがあり、オレゴン大から最もプロ向きのQBという評価で鳴り物入りで入団しスタートQBであったが、期待を裏切るような並の成績しか残せず、到底芽が出る様子もなく4年目を迎えたダン ファウツがキャンプの2日目からキャンプを脱走しいなくなったのである。(写真・9)
その3日後にフラッと戻ってきたがメディアにもみくちゃにされながらもニコニコ笑いながらウォルシュの部屋に謝罪に行き、ケロッとした顔で部屋から出て来た。
夜にウォルシュから聞いたが、どうもファウツは身体に似合わず気が弱く、ウォルシュが凄く厳しい指導者だと思い込んでいたようで他のチームにトレードしてもらうか、ダメなら退団しようかと思い詰めていたようである。
だが、ウォルシュの話をじっくり聞いてからファウツは人が変わったように目付きも変わり、次の日からウォルシュの英才教育を受けることになり日に日に向上していくのが目に見えた。
その1ヶ月後に東京で再会したが、ウォルシュは顔を見るなり「東京はアメリカと違ってチップがいらないのがイイネ」というのが最初の言葉であった。
東京での初のNFLの試合はやはりパス オフェンスを得意としエアー コリエルと呼ばれていたヘッドコーチ ドン コリエルの率いるセントルイス カージナルスとの対戦で20−10で敗れはしたがウォルシュにとってもファウツにとっても収穫は多くあった。
余談だがドン コリエルは後にチャージャーズのヘッドコーチに就任しファウツを使ってNFLのパス攻撃の記録を全て塗り替えるほど大活躍を見せることになり、ダン ファウツもNFL屈指のパサーとして名を残すことになっていくのである。
この時の対戦相手であったカージナルスのQB陣の中に、ベンガルズ時代にウォルシュから指導を受けたサム ワイチというQBが既に大スターであったジム ハートの控えQBとして来日していた。
サム ワイチについても後に詳しく書きますが、ワイチとの関わり合いというのも最初に書いたように本当に不思議な縁(えにし)で結ばれているような気がします。