久保田薫コラム

久保田 薫 アメフト マンダラ

第32話
久保田 薫 アメフト マンダラ
其の2 ビル ウォルシュいよいよNFLヘッドコーチに(2)

スタンフォード大での1年目は8勝3敗で6年ぶりにボウルゲームに出場しサン ボウルでLSUに24−14で勝利しチームの所属するリーグのPAC 8カンファレンス最優秀コーチに選ばれ、翌78年も8勝4敗の好成績でブルーボンネット ボウルに出場、シーズン中の対戦で22−0と完敗を喫したジョージア大と再対戦したが25−22で雪辱をした。

そして、ウォルシュが初めて高校のヘッドコーチを務めてから22年後の1979年1月9日に遂に念願のしかも最初に教えた高校の対岸にあるサンフランシスコ 49ersの11代目ヘッドコーチに就任が決まった。

遂にウォルシュの故郷とも云えるベイエリアの名門プロチームのサンフランシスコ 49ers(ゴールドラッシュに沸く1849年にサンフランシスコの砂金を求めて多くの人々が東部から一攫千金を夢見て我先にと駆けつけたが、その金を求めて集まってきた人達の事を49ersと呼び、それをチームのニックネームに使用した)からヘッドコーチとしてのオファーがきた、これはウォルシュにとって願ってもない話で、いつかはと思っていたもののまるで夢のようであった。そして、その2年後の1981年のレギュラーシーズン地元キャンドルスティック スタジアムでの最終戦であったヒューストン オイラーズとの対戦をプレイオフに出られそうなので観に来ないかと連絡をもらい、オイラーズに28−6で圧勝した後に1979年に49ersからヘッドコーチとしてオファーがあった時は身体の震えがとまらないほどで人生であれほど興奮したこともなかったし、嬉しさも例えようのないほどであったと語ってくれた。(写真・2)

この時ウォルシュは47才であった。
NFLのヘッドコーチとしてはこれが初めてであったが、アシスタント コーチ時代や大学のコーチ時代に指導し、後にフットボール界を代表するQBやコーチになった選手も枚挙に暇(いとま)がないほどである。

ベンガルズではケン アンダーソン(写真・3)、後にベンガルズのヘッドコーチになりスーパーボウルで師匠であるビル ウォルシュの49rsと対戦することになるサム ワイチ(写真・4)、チャージャーズではダン ファウツ(写真・5)そして49ersでは伝説のQBと云われるジョー モンタナとスティーヴ ヤング(写真・6)などNFLのレコード ブックに名を残すような名QBを多く育てた。中でも教え子をヘッドコーチとして送り込んだチームは必ずと言っていいほど強くなっていった。(参照 ビル ウォルシュ Coaching Tree)

私が観戦したオイラーズ戦は81年のシーズン最後のホームゲームであったが対戦チームの選手紹介の時にオイラーズというより当時のNFLを代表する名RBであり私も大ファンであったタックラーから絶対に逃げず真正面からぶつかっていく豪快なランニングスタイルのアール キャンベルが紹介されると大ブーイングかと思いきや敵地でありながら盛大な拍手で迎えられたのにはさすがと思わせるものがあった。(写真・7)

さて、そのオイラーズ戦ではスポッター席で観ていたが最初のシリーズで絵に描いたような攻撃を展開し自陣20ヤードから一気にオイラーズのゴール前まで詰め、4thダウンで数センチになったが通常ならゲーム開始後まだ数分しか経っていないのと、点はとれるときに3点でもいいから絶対にとっておくという鉄則(皮肉な事にウォルシュから教わったのだが)からしても、ここは無難にFG(フィールドゴール)かと思っていると意外や相手守備の外側へのランプレーの選択といういきなりのギャンブルプレーであったが、オイラーズのディフェンスに読まれ2ヤードのロスとなりしかも攻守交代で大きな先制のチャンスを逃した。 地元のファンから大ブーイングが起こったがコーチの間では負けはしないと読んでいたせいか悠然としていた、が観ていた私はウォルシュらしからぬ強引すぎるとも思える攻撃に正直言って驚いた。

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