久保田薫コラム

アメリカンフットボールの起源と歴史

第13話
アメリカン フットボールの起源と歴史
第3章

話を元に戻すと、ローマがギリシャを征服すると同時に当然ハルパストンも受け継がれていった、そして15世紀になるとフットボールも大きく変わっていき、イタリアでもハルパストンを基盤に独自のカルチョ(写真・1)という球技が行われていた。
ヘンリーU世が即位した1154年からリチャードV世が亡くなる1485年まで大英帝国を支配していたプランタジネット王家のエドワードU世は1314年、こともあろうに当時町の通りで行われていたフットボール ゲームの歓声や騒音が余りにもうるさい事と、死傷者が多く出るほど危険であった事からフットボール禁止令を発令した。

この禁止令は発令されてから約300年後の1608年まで解かれる事はなかった。
禁止令の期間中の1389年リチャードU世は更にフットボール以外のテニスなどの他の競技さえも禁止してしまった。

しかし、イングランド、ウエールズ、スコットランド等の大都市での監視はさほど難しい事ではなかったが、地方の田舎町の通りで楽しんでやっているようなフットボールを取り締まるほど目は届かず、禁止令の出ていた期間中でもフットボールの人気は衰える事はなかった。

例えばその期間中であった1539年に町の靴屋が34ペニーで皮のボールを作っていたという記録が残っており、前回の装具の項でフットボール ブーツの話を書きましたが、ヘンリー8世が禁止令の最中にも拘わらず1526年にお抱え靴屋にフットボール用のブーツをオーダーしたというリストが発見されている。また、ロンドンの刑務所では禁止令を破った囚人が12ペニーの罰金を徴収されたという記録も残っている。これらは英国人がいかにフットボール好きであったかという証でもある。(写真・2A)

そして、1608年禁止令が解禁された後、イングランド、ウエールズ、アイルランドで現在のゲーリック フットボール(Gaelic Football)に近いと云われているフットボールが1チーム20〜30名の選手達で行われていた。 とはいうものの、17世紀、18世紀のフットボールはまだ明確なルールや定義はなく、ボールをドリブルしたり(Dribbling)、手で扱う(Handling)といった行為がゴチャ混ぜのような状況でボールを持って走る(Carrying)という事はなかった。
(写真・2B)

そして、1717年「Eton Wall Game」(イートン ウォール ゲーム)というラグビー フットボールの前身のようなゲームが行われ、1チーム18〜20人で スクラムを組んでボールを壁に向かって足で運び、壁に到達すると今度はボールを壁伝いに足で上に押し上げ、最後に手でボールにタッチしたら得点になるという格闘技と曲芸を併せたような球技だが得点になることは殆どなく何年も無得点試合が続いたと云われている。また、観衆はボールを奪う為に相手を殴ったり蹴ったりしている選手をまるで闘牛や闘鶏を見るように壁の上から眺めていた。(写真・2)
現在でもイートン大学でセント アンドリュース デイに行われているがその当時は負傷が絶えず、1827年から10年間これも禁止されてしまった。 そして、1840年「Field Game」(フィールド ゲーム)と呼ばれる1チーム11人でゴールを目指す危険度の少ないゲームとして再開されたが、手の使用の禁止が明確にされ、これが後のサッカーの原点のひとつである事には間違いないでしょう。

ほぼ同じ時期に「Harrow Football」(ハロー フットボール)という球技も行われていたが、これはハロー校のみで行われており選手の数は通常では11人だが上限に決まりはなく両チームの合意があれば7人以上なら何人でもいいということであった。また使用されていたボールが球形でもなく楕円球でもないという変わった形のもので、UFOかポーク ミート パイのような形をしており直径は45cm、高さが30cmとかなり大きなボールで泥んこのグラウンドで試合すると泥が付き水を吸ったりするので異常な重さにになってしまう。

1793年、当時はまだ町の通りでフットボール ゲームが行われていた時代、赤色のシャツを着たシェフィールドのチームと緑色のシャツを着たノートンのチームが6人づつの選手で闘ったが、シェフィールドを応援する大勢のファンがノートンのチームにプレッシャーをかける意味で大歓声をあげるので、死者こそ出なかったが多くの負傷者が出て大騒動になり、しかも試合は3日間も続いた。 このシェフィールドのチームがその後クリケット クラブを編成することになるが、1855年には本来のシェフィールド フットボール クラブとなった。

その後、シェフィールド近郊に15のクラブ チームが誕生し、中でもシェフィールドにとって最大のライバルであったヘイラム フットボール クラブと1861年に地元の病院のチャリティ ゲームとしてブラメール レーンで600人の観衆を集めて行われ、シェフィールドが2−0で勝利を収めたが、この75年後に同じ場所で同じ対戦チーム同士で試合が行われたが、その時は68,000人もの大観衆が声援を送るほどになっていた。

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