久保田薫コラム

アメリカンフットボールの歴史と大統領

第22話
アメリカンフットボールの歴史と大統領の関わり
第1章

アメリカン フットボールの発展史や歴史を語る中で、大統領の関与で大きく歴史の流れが変わったり、大統領自身がチームの中心選手として活躍したり熱狂的なファンであったりすることも多く、そのエピソードには事欠かない。

歴代大統領とフットボールの関わりと言っても、アメリカ人の男性であればアメリカン フットボールを見ただけで寒気がするという人を探すほうが難しいほどで、それは大統領とて同じで、例え本人自身がプレーしていようといまいと贔屓のプロ チームやカレッジのチームがあるのは普通でしょう。

アメリカに於けるアメリカン フットボール(以降フットボールと記す)はもはやスポーツを超越し立派な文化と云えるでしょう。
ここに挙げる大統領達はフットボールの愛好家であるだけではなく、フットボールに若い頃何らかの形で自身が深く関わってきた人達ばかりです。

最近ではプロの王座決定戦であるスーパーボウルの開始のセレモニーでコイン トスの際、テレビを通じてホワイト ハウスから大統領が行うケースも良く見られるようになり、大統領にとっても王座の行方は大きな関心事にもなっています。

さて、学生時代にプレーヤーであったり何らかの形で自身が本格的にフットボール部で活動してきた大統領は第31代大統領ハーバート フーヴァー、第34代大統領 ドワイト アイゼンハワー、第35代大統領 ジョン F. ケネディ、第37代大統領 リチャード ニクソン、第38代大統領 ジェラルド フォードの5名が挙げられます。

異色なのはこの中には挙げられていませんが、第26代大統領のセオドア ルーズヴェルトでしょう。自身は学生時代にフットボールの有名選手であった訳でもないが、フットボールの起源と歴史の項で記述したように1905年、年間で18人の死者と159人の重傷者を出し、フットボール廃止案が沸騰しメディアにも再三その危険性や血まみれの選手の写真を大きく報道されたりし、議会でもその行き先を論議されることになった。

その時に大統領であったセオドア ルーズヴェルトはケガを回避できるようなルールの変更や中央部の密集に両チームの選手が積み重なるように集まりがちなランプレーが危険度を増すということから、フォワードパスの公認などでプレーを大きく展開できるよう大幅にルール変更をし、且つより安全な用具の開発を用具メーカーに命じ、フットボールの存続を決定した。劇的にフットボールの歴史の流れを大きく変えた大統領としてはルーズヴェルトの名は外すことはできないでしょう。

1913年、56才の時に第28代大統領に就任したウッドロウ ウイルソン(写真・1)は1878年プリンストン大の下級生にも拘わらず「フットボール アソシェイション」の部長を務め、後に1902年から1910年までプリンストン大の総長に就任しプリンストン大のフットボールの発展に大いに寄与した。

1929年、54才で第31代大統領に就任したハーバート フーヴァー(写真・2)は自身がフットボール選手として活躍したわけではなく、スタンフォード大のフットボール部と野球部の会計担当のマネージャーとしてチームの運営に携わった。当時はまだマネージャーというポジションが確立していなかったので史上最初の運動部のマネージャーの一人である事には間違いないだろう。

フーヴァーは予算を預かるマネージャーとしてユニフォーム代、用具代なども節約し資金繰りは非常にうまかったとも云われている。
フーヴァーは1892年スタンフォード大にウォルター キャンプをヘッドコーチに招聘し、その後のスタンフォード大が強豪チームの仲間入りするきっかけを作った。

また、後に対抗戦のビッグライバルとなったカリフォルニア大との対戦交渉をし、最初のカリフォルニア大との試合で15,000席しかないスタジアムに2万人もの観衆を動員し、スタジアムは溢れんばかりであったという。そして、フーヴァーはその試合終了後にカリフォルニア大のマネージャーと入場料の計算をしたが、生まれて初めて$30,000ドルの現金を目の前にして震えたと後に語っている。

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